自粛期間中、読んだ本です。
前回は「君主論」を紹介しましたが、こちらも「帝王学」を学ぶ際には必ず名前のあがる名著です。
中国の歴史上、もっとも安定した治世であったといわれる年代の皇帝と臣下のやりとりを記録したもので、ためになるだけではなく、面白い本です。
当時の皇帝・太宗は、武勇に優れた人でしたが、政治は苦手だという意識がありました。そこで、謙虚に学び、広く教えを乞おうとしました。
そのやりとりが、この本には書かれています。
太宗という人は決して完璧ではありません。
しばしば初心を忘れ、謙虚さを失い、わがままをしてしまいます。
それでも臣下に指摘されると反省し、襟を正そうとします。
その繰り返しが、この本のすべてだと言っていいでしょう。
中国古典版「チコちゃんに叱られる」ですな^^
リーダーの心得、学び方、身の修め方、裸の王様にならないコツ、組織作りの秘訣など、経営者必読の内容ばかりです。
今回は、そのエッセンスを紹介いたします。
どうか最後までお読みください。
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「帝王学」の古典として読み継がれているのが、「貞観政要」です。
ここ数年、ブームになっているので、ご存じの方も多いのではないでしょうか。
「帝王学」の代表テキスト
「貞観政要」とは、いまから1400年頃前に活躍した唐の皇帝・李世民の言行を記録したものです。
(貞観とは、その治世の年号のことで、627年から649年。貞観年代の政治の要諦という意味です)
1400年前といえば、日本では飛鳥時代、遣唐使を送った頃です。
唐は、約300年続いた大帝国で、その礎を築いたのが、二代皇帝の李世民(太宗)です。
安定した国家の繁栄を演出した名君として知られる太宗の政治姿勢は、その後も永く理想とされてきました。
中国はもとより、日本でも、歴代天皇に献上されたことが記録に残っています。
また、北条政子、徳川家康といった時の為政者にも、大きな影響を与えたといわれます。
まさに日本で「帝王学」といえば、この本のことを指すのです。
兄弟殺しの悪名
太宗(李世民)は、唐を建国した李淵の次男です。武勇に優れた人で、各地の群雄を平定し、唐の領土的基盤をもたらした功労者です。
ところが、その武功を妬んだ長男(皇太子)と三男に命を狙われたために、策略をもって返り討ちにし、さらには、事態を黙認していたと思しき父親から皇帝の座を奪い取りました。
「兄弟を殺し、父を追いやった」ことが、太宗の治世に影を落としました。
権力争いは世の常だとしても、肉親殺しは、やはり悪名です。
中国は、記録社会です。皇帝とはいえ、いいことも悪いことも、すべて記録して後世に残すのが中国の伝統です。
だから、太宗の悪名は、後世に伝えらえることになります。実際、「貞観政要」の中にも、過去の評判の悪い皇帝の話が、軽蔑とともに語られています。
そうなりたくない、と思うのが人情でしょう。
汚名をそそぐためには、それ以上の善政を施すしかありません。
そんな太宗の涙ぐましいまでの努力が、彼を後世にまで伝えられる名君にしたのだから、歴史とは面白いものです。
諫言を受ける仕組み
太宗が倒した兄の重臣に魏徴という者がいました。
太宗はこの者を呼び出し「なぜ兄弟が離間するようにそそのかしたのか!」と詰問しました。
物語でいえば、魏徴にはでかい死亡フラグが立っている状態で、絶体絶命です。
ところが魏徴は少しも悪びれず「皇太子が私の言葉に従っていれば、今日のような悲運はなかったであろう」と言ってのけました。
いわば、自分が仕える者の利益を図るのは当たり前だという宣言です。
これを聞いた太宗はいたく感心し、魏徴を許したばかりか、自らの重臣としてとりたてました。
歴史上の偉人には、こういう器の大きさがあるものです。
魏徴に与えたのは諫議大夫という役職です。諫言(かんげん)をする大臣です。
要するに、耳の痛い忠告や警告を皇帝になす役割です。
忠義に厚い魏徴は、この役割を見事全うしました。
「貞観政要」には、魏徴をはじめ、重臣たちが忌憚のない意見を太宗になし、反省を促す様子が描かれます。
ふつう、権力者の周りには、イエスマンばかりが集まって、裸の王様にしてしまうものです。
耳に心地よいゴマすり言葉を遠ざけるのは至難の業です。最初は気を付けていても、いつの間にか、上に立つ者の孤独につけこまれ、プライドをくすぐられて、客観的な視点を失っていきます。
ところが、太宗は、重臣たちに諫められ、反省することもしばしばです。
およそ皇帝らしくないカッコ悪い姿でしょうか。
そうではありません。
魏徴は、明君は広く多くの意見に耳を傾けるが、暗君はお気に入りの臣下の言葉しか聞かないと断じています。
中国の歴史をみても、国が亡ぶときには、巧言を弄して君主を囲い込もうとする奸臣と、まんまと取り込まれてしまう暗君がセットで登場するものです。
太宗は、ことのほか、暗愚になってしまうことを恐れた人でした。
だから実に多くの臣下の意見を聞き、耳の痛い諫言をも受け入れるように努力していました。
「貞観政要」は、そうした臣下の諫言と、それを聞いて反省する皇帝の記録といっていいでしょう。
我々は、その体制を貫いた太宗の聡明さと度量の大きさ、暴君化を阻む自律心の強さに驚き、名君とはこういう人かと学ぶわけです。
リーダーには「徳」がなければならない
太宗にとって、その治世は歴史との闘いでもありました。
先に書きましたが、中国には記録の伝統があります。いいことも悪いことも記録するのが、歴史に対する責任であると考えられていました。
スタート時に兄弟殺しの悪名を着た太宗は、歴史の評価をいたく気にかけていました。
臣下に対して「自分自身の反省に役立てたいので、記録したものを見せてほしい」と頼んで断られる場面があります。
あげくに「記録を差し止めたとしても、天下の人々の目はごまかせませんよ」と諫められる始末です。
こうした赤っ恥も記録されてしまうのが歴史です。
そんな太宗だから、自分自身が謙虚に学び、身を律していこうと努力していました。だからこそ臣下の諫言も素直に聞くことができたのでしょう。
自らの身を修め、正しい人間であることが、国を治めることにつながる。というのは、儒教の考え方です。
儒教の祖である孔子は「徳をもって統治する」ことを勧めました。
「貞観政要」の中でも、魏徴により「君主の徳」が説かれています。
「徳」なんて曖昧なもので、国が治められるわけないやろ!と突っ込みたくなるのが、現代の感覚でしょうかね。
気持ちはわかります。
しかし、山本七平の「人望の研究」などを読むと、儒教的な徳が、いかにわれわれ日本人の心性に溶け込み、規範となっているかがわかります。
われわれが感じる「人望のある人」とは、儒教的な「徳のある人」とほぼイコールです。
さらにいうと、日本人の考える「徳ある人」は、西洋に出ても、人望を得ることがわかっています。明治期、海外に出た日本人が得た評価がそれを示しています。
つまり「徳」とは洋の東西を問わず、普遍的な価値を持つものだということです。
われわれが、統治者やリーダーに「徳」を求めるのは、自然なことであり、統治者が徳を持つことは、その統治に大きな助けとなるものです。
「貞観政要」には、君主の徳として「十思」「九徳」が提示されています。具体的な内容は、こちらの本をお読みください。
巨大国家を運営する仕組み
とは言いながら「徳」だけで国が治まるわけではありません。
秦の始皇帝も、漢の高祖も、国の統治に活用したのは、ピラミッド型の組織体制と体系的な法運用でした。
始皇帝は、法術の大家「韓非子」が唱える法活用を高く評価し、国の統治に取り入れました。その法体系を運用する前提となったのが、中央集権的な郡県システムです。
官僚制の始まりといわれる郡県制こそが、広大な中国全土を統治するために必要不可欠なものでした。
もっとも秦の郡県制と法制度は、厳しすぎ、非人間的過ぎたのか、各地で機能不全を起こしてしまいました。
そこで秦の後を継いだ漢は、いくぶんマイルドな郡県制と法体系を施行しました。その際、同時に採り入れたのが儒教の思想です。
礼節を貴み、上下関係を重んじる儒教の教えは、治安を安定させるには好都合だと判断されたのでしょう。
ちょっとうがった見方かもしれませんが、民衆には徳を求めさせ、官僚には法制度を厳格に運用させ、国家は軍事力を背景として外敵を駆逐し反乱を抑え込む。これが中国の国家運営です。
この運営は見事に機能し、漢は約400年続く長寿国家となりました。
「できる人に任せる」極意
前回のメルマガで紹介しましたが「君主は道徳を守るふりだけしていればよい」とぶっちゃけたのは「君主論」マキアヴェリです。
マキアヴェリは「道徳を守るよりも、国を守れ!」と言いたかったのであって、とくだん悪虐だったわけではありません。
その点、太宗は軍事力を背景に皇帝の座についた人です。軍事的に国を守る手段は充分に持っていました。
しかし、それだけで国を安定させることができないことも理解していました。
太宗は皇帝の座につくと「草創(創業)の時代は終わった。これからは守文(維持)だ」と宣言します。
そして「私は政治のことは何もわからないので勉強したい」と言って、古典を読み、側近たちに教えを乞うようになりました。
なんとも殊勝な皇帝ではないですか。
太宗の方針は、大胆なほどの権限移譲でした。
「自分はたいしたことができないので、余計な口出しはせずに、できる人に任せる」と言って、臣下に任せてしまうのです。
この「できる人に任せる」というのが、キモです。
結局、組織を動かすのは人です。適材適所が郡県制度運営の要諦です。
「できる人」がいれば、信頼して任せてしまう。これを徹底し、多少の失敗や瑕疵には目をつぶり、できる部分だけを評価すると言いました。
なにしろ太宗は遠い地方の役人の動向にさえ心を砕くような人でした。そんな人が、短所には目をつぶると言っているのですから、相当、自分を抑えていたことでしょう。(抑えきれずに文句を言って、魏徴に「短所は大目に見ると言ったはずです」と諫めらる場面もあります)
その分「できる人」を見つけることには熱心です。太宗は、国中からできる人を見出すように指示していました。
臣下の者が「なかなか人材がいません」と愚痴ろうものなら「探し方が足らん」と叱責しています。
その際の人材を判断する基準がなかなか興味深い。魏徴は「いまは乱世ではないので、能力よりも人格を重視すべし」と進言しています。
なぜなら「能力のない善人なら仕事が滞るだけで済むが、能力のある悪人は計り知れない害悪をもたらす」からです。
そんな方針の政権ですから、君主が勝手なことをしていいはずがありません。
太宗は「人民は君主に感化される」「君主が身を正さねば民衆は安心できない」「人民に誠実でなければならない」とことあるごとに言って、自らを戒めています。
やはり組織は、リーダーの器以上のものにはなりません。
できる人に任せてしまうと、リーダーは楽ができるような気がしますが、実際には、身を正し、人徳のある人になるための修練を続けるという仕事があります。
人格修行には、終わりがありませんから、けっこう大変です。
名君と名臣 ここにあり
「貞観政要」を読むとわかりますが、太宗は決して完璧な人ではありません。
自分で言ったことを忘れて、臣下に諫められることしばしばです。
しかし、太宗には、部下の諫言を素直に聞いて反省すべきところは改めよう、広く意見を聞いて偏見のない心でいよう、人の上に立つ者は欲望に負けず公正でいよう、そんな心掛けを持ち続けた人でした。
そんな人だから、臣下に敬われ、民衆に慕われたのでしょう。
太宗が統治していた貞観年間は、中国の歴史の中でも、ひときわ安定し、幸せな時代だったといわれています。
そんな太宗も、晩年には気のゆるみが生じ、無駄な贅沢やわがままな行動が目立ち始めました。
そんな太宗を諫めたのは、やはり魏徴でした。「処刑されても構わない」という覚悟で書いた上表文には辛辣な言葉が並んでいます。
それを読んで太宗はこう言っています。
「あなたが指摘してくれた過失を必ずあらためよう。そして、有終の美を成し遂げよう。あなたの言葉は強く、人として正しいことをいっている。そこであなたの言葉を屏風に仕立てて、朝夕に仰ぎ見ることにした。1000年あとの者が、君主とその臣下の間にある義を知ってほしいものである」
名君と名臣ここにあり。1000年どころではない不滅の輝きがあると思う次第です。
参考
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