■私は元来無趣味な方ですが、敢えて言えば、映画を観るのが好きです。
今は時間の関係であまり観れてはいませんが、学生時代から30代ぐらいまでは、よく観たもんです。
よくもまあ、時間があったんだな〜と思います^^
■映画が好きだというと「今までで一番面白かった映画は何ですか?」という質問をよくされました。
困った質問です^^;
映画なんていくらでもあるし、面白さも千差万別です。そもそも面白いという言葉自体が曖昧です。
悲しいのも面白い。怖いのも面白い。感動するのも面白い。
基準の違う面白さを一緒くたにして、一番面白いのは?なんて聞かれても、答えようがない。
プロレスと空手と柔道と相撲を並べて「一番強いのは?」なんて聞いているようなもんでっせ。
■ただし私に関する限り、その質問には瞬時に答えられます。
私にとって、今まで一番面白い映画は、疑いようがないほど明瞭です。これは恐らく生涯変わることはないでしょう。
この先、これ以上、面白い映画はないと信じています。
特に、アクションを主体にした映画で「七人の侍」を超えるものを作ることが可能だとは考えられません。
断言します。
黒澤明の「七人の侍」こそ世界映画の史上最高傑作です。
この映画を観た人で、異論を持つ人は少ないのではないでしょうか。
■始めてこの映画を観たのが、テレビやビデオではなく、リバイバル・ロードショーの大画面だったことは幸運でした。(確か高校生ぐらいではなかったでしょうかね)
それ以来、私は、この映画のことを疑ったことはありません。
それぐらい衝撃的な映画体験でした。
■この映画が上梓されたのは1954年です。まさに戦後10年を控え日本が高度成長期に差しかかろうとエネルギーを充満させつつある時期にあたります。
映画界においては、溝口健二、小津安二郎、成瀬巳喜男といった世界的に有名な巨匠たちがしのぎを削っていた時代です。
日本映画は世界中からお手本とされ、尊敬を集めていました。その頂点を極めたのが、この作品です。
■黒澤明は、1910年生まれ。26歳で映画の世界に身を投じ、助監督をしながら、まずは脚本の名手として鳴らします。
1946年「わが青春に悔いなし」、1948年「酔いどれ天使」、1949年「野良犬」などで名声を高め、1950年には「羅生門」がベネチア国際映画祭でグランプリを受賞。世界にその名を知られるようになります。
1952年「生きる」、1954年「七人の侍」、1955年「生きものの記録」、1957年「どん底」「蜘蛛巣城」、1958年「隠し砦の三悪人」、1960年「悪い奴ほどよく眠る」、1961年「用心棒」、1962年「椿三十郎」、1963年「天国と地獄」、1965年「赤ひげ」と精力的に傑作・名作を生み出していきました。
このあたりのバイタリティとクオリティの高さは驚異的です。
「黒澤明が西部劇を作る!」
噂は映画界を駆け巡り、プロジェクトはいつの間にか、巨大なものになっていました。
図らずも、日本映画のエネルギーが頂点を迎えていた時代です。そのパワーと、黒澤明という不出世の天才のキャリアがピークで結びつき、相乗効果を生んだ極めて幸運な作品が、この「七人の侍」です。
この映画のスピード感・躍動感、物語の納得性、人物造詣の巧みさ、映像構図の絵画のような美しさ、群集シーンの大迫力は類を見ません。
ことにラスト20分にわたる侍と野武士と百姓たちが入り乱れた雨中の死闘は、凄まじいとしか言いようがありません。
どれほど映画の技術が発達しようとも、このシーンを超える迫力を出すことは不可能だと私は思います。
恐るべき迫力の集団シーンが凄まじいスピードで展開し、しかも何の矛盾も感じさせることがないのです。(普通、パニックシーンには、小さな矛盾がいくつか生じるものですが...)
この群集の動きを統率し、描ききった黒澤明の演出力が、どれほど強大なものだったかが推し量れます。
この映画は、全盛期の天才・黒澤明にしか撮れなかったものでしょう。
■黒澤映画は世界中の映画に影響を与えたと言われています。
「羅生門」は、ヨーロッパの映画関係者に異常な衝撃を与え「ラショウモン・ショック」という言葉ができたほどです。
「蜘蛛巣城」は、イギリスでは、シェイクスピア映画の最高傑作と評価されています。
「生きる」はアジアの映画人に広く受け入れられ、インドでは10以上のリメイク版が無許可で作られたといいます。
そのジョージ・ルーカスは「天国と地獄」をサスペンス映画の最高傑作と呼びました。
そして「七人の侍」は、映画史上の最高傑作として、多くの映画人が推しています。
クロサワの前にクロサワなし、クロサワの後にクロサワなし、というのが、黒澤明という存在なのです。
■そんな黒澤明も日本では賛否両論があるのは確かです。
さすがに、その才能に疑いを持つ者はいませんが、「天皇」とまで言われた傲慢な態度が、いくつかの反発を招いたようです。
もっとも、黒澤明が本当に傲慢な人物だったのか、今となっては真実は分かりません。
純粋に映画づくりに妥協を許さぬ完璧主義が、傲慢だと受け取られたのかも知れません。あるいは、本当に一時期、才能に奢っていたのかも知れません。
ただ、制作会社である東宝と徐々に関係をこじらせていったのは事実のようです。
■というのも、黒澤映画に予算超過はつきもののようになっていったのです。
脚本にこだわり、俳優の演技にこだわり、音響にこだわり、小道具にこだわり、背景にこだわり、ロケの天候にこだわり、編集にこだわる。
映画に関する限り、妥協するということがないので、撮影は遅れに遅れ、予算は超過どころか倍増することもありました。
確かに名作を作り、観客も呼べる。結果として東宝が損をすることはないのですが、それをいいことに要求はエスカレートしていったようです。
これでは暴走と受け取られても仕方ありません。
撮影に1年かけるというやりたい放題の映画「赤ひげ」以降、黒澤明と東宝は決別状態になってしまいます。
■もっとも黒澤明ほどの才能をハリウッドが放っておくはずがありません。
それまでも、何度かオファーを受けていたようです。
また黒澤側も東宝との関係悪化を受けて、資金力の豊富なハリウッド映画に興味を持つことは自然な流れだったのでしょう。
黒澤明のハリウッド進出は、両者の思惑が一致した相思相愛のビジネスだったのです。
■黒澤監督のハリウッド進出第1作は「暴走機関車」になるはずでした。
これは止まることができない機関車を舞台にしたスペクタクル映画で、全編アクションとサスペンスに満ちた純粋なエンターテイメント作品です。
既に、主演にピーター・フォークとヘンリー・フォンダが決まっており、まさにヒットが約束された大型企画です。
ところがその企画は、いつの間にか無期限延期となりました。
次に持ち込まれたのは、20世紀フォックス社が総力を上げた大作映画「トラ・トラ・トラ」です。
これは日米開戦の緒戦である真珠湾攻撃を日米両方の立場から描いた戦争映画で、黒澤明には日本側のパートを演出してもらおうというオファーでした。
ところが、この映画に至っては、撮影途中で監督が交代するという事態に至ります。
一体、何があったというのでしょうか?
■実はこのあたりの真相ははっきりとしません。
黒澤明は、この件についてあまり多くを語りませんでしたし、周りの人間もこれら一連の出来事についてはタブーのようにしていましたから。
ただいくつかの情報から類推することはできます。
今に残る「暴走機関車」のシナリオは、サスペンスに満ちた面白い作品のようです。脚本の名手黒澤明の面目躍如といったところでしょうか。
(1985年に別の監督によって映画化されますが、サスペンス色が相当薄まった作品となっていました)
ハリウッドのプロデューサーもそれを認め、プロジェクトを発進させたわけですが、脚本を英語に直す時点で壁にあたったようです。
これは単に、黒澤明が英語を書けないという問題ではありません。
例えば「このシーンは具体的にどのように撮るんだ?」というプロデューサーの問いに「細かいことは後に決める。おれに任せてくれ」
「脚本が長すぎる。時間を削って欲しい」という要求には「編集で削っていって、丁度いい長さにする。おれを信じてくれ」
という調子だったそうです。
これは黒澤明が自分の作品を作る過程を端的に表しています。彼は、自分の頭の中で映画を組み立て、現場で修正を加えながら、自分の思い通りに作り上げていく監督なのです。
極端な話、完成した映画のイメージは黒澤明の中だけにしかなく、誰もそれを知ることができない。
天才・黒澤明に任せていれば、いいものができるというスタイルです。
東宝の仕事では、相当程度裁量を任されていたので、そのスタイルが機能して、名作を次々を生み出すことができました。
ただ、このやり方の負の面である「コスト管理の困難」が最後には、両者の決別をもたらします。
それなのに、万事に合理性を追求するハリウッドのシステムが、黒澤明のやり方を受け入れるはずがありません。
あるシーンをどのように撮るか具体的に決まっていなければ、費用がどれぐらいかかるか判断できません。
最後には削る"使わない"シーンばかり撮られては、コストが跳ね上がってしまいます。
プロデューサーが、それを認めることはなかったのです。
■ハリウッド映画に資金が潤沢にあることは確かです。
しかし、それを無軌道に使い放題というわけではありません。
当然のことながら、資金の使い方には合理性が求められます。
思えば、ランチェスター戦略の構築も、田岡信夫先生が「合理的なアメリカ軍が単なる物量作戦を展開したわけはない。軍を展開するための法則があるはずだ」と考えたことから始まっています。
出来上がった大作映画だけを観て「お金をいっぱい使えていいなーー」という単純なものでないことは確かです。
■「トラ・トラ・トラ」は、真珠湾攻撃のスペクタクルを前面に出し、そこに日米開戦に至る歴史の裏側を交えたエンターテイメント大作です。
黒澤監督に対するオファーは、あくまで日本側のパートの演出でした。
ところが黒澤明は「運命に翻弄された人間の悲劇を撮る」という意気込みで、作品全体の脚本を作ってしまいました。
ハリウッド側がその脚本の素晴らしさを認め、全面採用したために、黒澤明は「自分の思い通りの映画が撮れる」と思ってしまったのかも知れません。
ここでも撮影方針、スケジュール、予算をめぐって、相当のやりとりがあったようです。
それに、アメリカ側のパートをとる監督が意に沿わない人物だったとかで、まともな打ち合わせを拒否したりしています。(「黒澤明vsハリウッド」による)
この映画は撮影開始にまでこぎつけます。しかし、黒澤明のモチベーションは低く、続けられる状態ではなかったようです。
様々なトラブルが続いて撮影は進まず、黒澤明は降板させられます。
黒澤明の心労は多大で、2年後、自殺未遂事件を起こします。
■私も黒澤明監督の大ファンとして心苦しい限りなのですが、経営コンサルタントの視点で見る限り、この事態は避けられぬものだったと言わざるを得ません。
一説には、黒澤明の「芸術至上主義」とハリウッドの「拝金主義」が馴染めなかったと言われていますが、それは偏った見方でしょう。
ビジネスの基本は「安く作って、高く売る」ことです。あらゆる企業は、どのようにして安く作り(仕入れ)、どのようにして高く売るかに知恵を絞り、しのぎを削っています。
ただ安く上げればいいというものではない。安物は、顧客満足度が低く、高く売ることなどできません。
したがって、顧客満足に直結する部分にはお金をかけて、しない部分は削るというのがビジネスのコツとなります。
限られたコストをどのように使うかによって、企業は生き、死んでいくのです。
噂によると、黒澤監督は、細部にものすごくこだわった監督だったそうです。
武士の具足の結び目が時代考証を経たものでなければ納得せず、撮影を中止したそうです。
「トラ・トラ・トラ」の撮影時には、お見舞いシーンに使う手紙の中身が別のやくざ映画に使われた果たし状だったということで激怒し、その日の撮影を取りやめたそうです。
こうした黒澤監督の完全主義が、日本映画の見えない力を底上げしていった側面は確かにあることでしょう。
ただ、画面に映らない手紙の中身のことで撮影を中止するのは、非合理だと言われても仕方ありません。
明らかにオーバースペックです。
■日本の製造技術は世界一であると言われます。
特にデバイスの分野では、他の追随を許さぬ強さを誇っています。
それを支えているのが、多くの町工場の積み上げてきた製造ノウハウです。
ただ、多くの部品製造業の中でも、淘汰されるものと生き残るものがあるのは、マーケティング戦略とコスト管理の差によるところが大きいと思われます。
「いいものを作れば分かってくれる」という考えはとうの昔に通用しなくなっています。
過剰品質は、ビジネスにとって悪なのです。
それを理解しないと、グローバル市場では戦っていけません。
■今日の話は、つらいですね。。。
私は営業コンサルタントとして、カリスマ営業マンを否定しています。
その営業マンの能力が高い低いに関わらず、自信過剰で、自分には特別ルールが適用されると考えるような人材は、チームにとって害悪です。
そのような人材がもしいたならば、チームプレーをするように正さなければなりません。それでも聞かないなら、迷わず営業から外してしまいます。
だけど、それが黒澤明ほどの真の天才ならば...
■ハリウッド側にも、東宝にも、黒澤ほどの才能を活かす他の方法がなかったものでしょうか。
また黒澤も、グローバルな映画づくりのシステムを理解し、自分の才能を活かす方法を試すことができなかったのでしょうか。
最も気力の充実していた時期の空白の5年は何とも惜しいと思わざるを得ません。
■しかし、だからといって、黒澤明の業績と天才が何ら色あせるものではありません。
黒澤明よ永遠なれ。
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■日本で怪物と言われた松坂大輔もメジャーリーグでは苦しんでいます。
といって実力が足りないとは思えません。
元来、尻上がりに調子を上げ、いつの間にか完投している怪物ぶりが、100球で交代させるメジャーのシステムの中では十分に発揮されないのです。
■松坂が、それに文句を言うことはありません。
ルールやシステムの中で力を発揮してこその才能であることを野茂やイチローらの先達が示してきたからです。
■日本の映画監督で、ハリウッドで成功した例を聞いたことがありません。
実力がないわけではない。
まだシステムに適応する者が現れないだけだと思います。
いつかはクロサワの無念を晴らす者が現れることを願っています。