先日、「織田信長が22年かけてできなかった天下統一を、豊臣秀吉がたった8年でできた理由」というメルマガを書きましたが、その補足です。
豊臣政権のマネジメント方法について書いておきます。
太閤検地
豊臣秀吉は、日本全国の土地に担当者を派遣して、正確な石高(米の収穫量)を測定記録していきました。これが「太閤検地」といわれるものです。
これによって諸国領地の実際の石高が掌握されるようになりました。この石高が、諸国大名統治の基本となり、徳川政権においても引き継がれていきます。
石高に応じて、諸国大名は、軍役や使役を課せられたのですから、迷惑千万な話であろうと思うのですが、実際にはそうでもなかったようです。
というのは、各地大名にとっても領地の正確な石高は知りたかったところです。実際の検地により隠田が暴かれ正確な石高が把握できるのは、むしろありがたいことでした。
また豊臣政権は、実際に耕作した者の収穫権を保証し、長農による中間搾取を認めませんでしたから管理体制がシンプルになりました。
諸国大名は、豊臣政権のこうしたノウハウを得たいがために、その傘下に入ったという側面もありました。
惣無事令
戦国時代には日常的であった領土争いなどを豊臣政権は全面的に禁止しました。これを惣無事令といいます。
領土に関して訴えがあると、豊臣政権が平和裏に裁定するというのがその仕組みです。
もし裁定に不満があって実力行使に出てしまうと、強大な軍事力を持つ豊臣政権に糾弾されてしまいます。
北条氏が滅ぼされたのも、この令に逆らって、真田領を奪い取ってしまったからでした。
官位授受
豊臣秀吉は天皇に次ぐ関白の位を持っていましたが、諸大名にも官位を積極的に授けました。
これは大名へ名誉を与えることではありますが、同時に、秀吉より下位に列せられることを受け入れさせることでもありました。
取次制度
豊臣政権の傘下に入る大名は、複雑な手続きを経なければならず、その交渉役を取次といわれる人物が担っていました。
取次は、秀吉子飼いの大名や、先に秀吉傘下に入った大名たちでした。
秀吉の意向を過剰に忖度する彼らの存在が、簡単に会えない秀吉を神格化させ、豊臣政権を畏敬させるこことなりました。
しかし実際に会った時の秀吉は底抜けに気さくな人柄でしたから、諸大名は拍子抜けすると同時に、深く敬愛するようになりました。
直轄地
豊臣家の石高は約200万石。これは徳川家220万石よりも劣っていました。
しかし、交易の要衝地である大坂、堺、京都、伏見、長崎。
および、巨大な埋蔵量を持つ金山、銀山を直轄地にしていたために、実際の収益は突出していました。
派手好きな秀吉は、大坂城を黄金で飾り立てたり、しばしば金銀を庶民にばらまいたりして散財しましたが、豊臣家の財産はびくともしなかったということです。