本能寺の変は織田信長とともに
(2021年2月18日メルマガより)


NHK大河ドラマは「麒麟がくる」が終わり、「青天を衝け」が始まりました。

どちらもわかりにくい題名ですね。説明がなければ、何の話かさっぱりわかりません。

ちなみに「麒麟がくる」の主人公は明智光秀で、「青天を衝け」は渋沢栄一です。

なかなか渋いところをつきますな。

「青天を衝け」の第一回は、妙に目力の強い徳川家康の登場から始まりました。「麒麟がくる」からうまくつなげようという配慮なんですかね。

物語に引き込むうまい演出でした。これは期待大ですよ。


世紀の破壊者としての徳川慶喜


徳川家康から始まった江戸幕府は、約260年の長きに渡って続きました。その最後の将軍が、第15代徳川慶喜です。

とんでもない秀才で就任時は「神君(家康)以来の傑物」と称されたそうです。

幕末のハイライトである「江戸城無血開城」を作家の司馬遼太郎は「世界でも類を見ない崇高な革命」であり、それを実現した「徳川慶喜、西郷隆盛、勝海舟」こそ、日本を救った最大の功労者だと絶賛しています。

確かにその通り。もし勝海舟がいなければ、西郷隆盛が相手でなければ、そして将軍が徳川慶喜でなければ、凄まじい内戦状態に突入し、西洋の列強諸国に付け入る隙をより多く与えていたかもしれません。

徳川慶喜といえば、鳥羽伏見の戦いで敵前逃亡したりして、とかく評判の悪い人ですが、頭が良すぎて周りの者でさえその考えや行動を理解されなかったといわれています。

何より、260年も続いた江戸幕府を将軍自ら終わらせるなど、常人の理解できるところにない人物です。

破壊があるから再生がある。

世紀の破壊者として、徳川慶喜を再評価してもいいのではないでしょうか。


織田信長の図抜けた先進性


日本史上に特異な痕跡を残した世紀の破壊者といえば、織田信長を挙げないわけにはまいりません。

日本人として唯一無二と言いたくなるほどの行動を示した織田信長も、周りから理解されない頭脳の持ち主だったようです。

とにかくその先進性は図抜けています。

ものの価値を米の量で測っていた時代、商業にいちはやく目を付け、商業振興や貿易によって経済力をつけました。

そしてその経済力によって当時のハイテク武器(鉄砲)を大量導入、最強軍団を作り上げました。

鉄砲は諸国の武将も試していますが、武田信玄や上杉謙信でさえ、たいして使えぬ武器だと判じています。が、それを信長は、最強の戦術に昇華させました。

さらには兵農分離を進めて、いつでも動かせる軍隊を常備、彼らを思うままに動かして、版図を広げていきました。

マネジメントも一流です。実力ある者を積極的に登用し、身分にかかわらず大役を任せました。

人使いは荒いですが、報酬は破格です。信賞必罰が徹底されているので、癖の強い家臣団も、懸命に取り組まざるを得ません。

何より、自分の土地を守ることに必死だった戦国時代、天下布武というビジョンを掲げたことじたいが尋常ではありません。

だから信長は、たびたび本拠地を移動させました。土地に執着していたら、天下などとれないからです。

ただ、これを部下にも強制したことが、混乱と不安を招いたのかもしれません。


隙だらけのマネジメント


マネジメントは一流と先ほど書きましたが、実はそうでもないかもしれない。案外、信長の人心掌握は隙だらけです。

なにしろ、よく裏切られる人です。

妹婿の浅井長政には、裏切られて九死に一生の窮地に陥りました。

松永久秀や別所長治、荒木村重など、目にかけていた武将にもしばしば謀反を起こされています。

挙句の果てには、最も信頼していたと思われる明智光秀に殺されてしまいました。

裏切る方にもやむを得ない事情があるわけで、それを理解しない信長のマネジメントには問題大有りです。

というか、裏切る原因を作っておいて、それに気づかない方がどうかしています。

どうやら信長という人は、人の心を読むのが苦手だったらしい。

人がみな信長のように合理的に動くわけではありません。先祖代々の土地に執着もあるでしょうし、出自へのプライドもあります。権威や神仏への畏れもあります。

それをすべて無視せよと迫り、意に沿わないと、功績に関わらず放逐するような真似をするのですから、ついていけないと思われても仕方ありません。

超合理的で、目的のためなら残虐なことも平気で行い、人の心が理解できない。信長は、いまなら、サイコパス診断されていたのかもしれませんね。


有能な実務家だった明智光秀


その信長を弑した明智光秀も傑出した武将です。

出自は不明、さほど身分の高い家柄ではないらしい。ところが、ハイテク武器(鉄砲)に詳しく、公家とも付き合える教養を身に着けていました。

信長とすれば使えるツールです。

きっかけは将軍足利義昭を連れてきたことですが、すぐに信長から重用されるようになります。

光秀は有能な実務家だったようです。

織田家の宿将たちが苦手とする公家との交渉がそつなくできるし、接待役も巧みです。戦争においては、調略もできるし、攻城戦にも強い。やれと言えば、相当残酷なこともやってのけます。

まさに信長の期待をすべて叶える働きをしました。

家臣団の中で最初の城持ち大名となったのが光秀です。しかも領国経営にも手腕を発揮し、その名領主ぶりは現代にも伝えられるほどです。

織田家をひとつの会社とすると、光秀は、中途入社ながら取締役兼執行役員といった異例の出世を遂げた人物でした。


「本能寺の変」はなぜ起きたのか


そんな光秀がなぜ信長を裏切るに至ったのでしょうか。

本能寺の変の原因については、諸説ありすぎてわけがわかりません。

わからないから、諸説出るのでしょうね。

追放された足利義昭が、光秀に命じたという説。

信長にないがしろにされた天皇や公家が、光秀を動かしたという説。

信長から疎まれたイエズス会が光秀を雇ったという説。

信長の暴走に業を煮やした秀吉が、光秀をそそのかしたという説。

なぜか宇宙人が光秀を操ったという説。

こうした、陰謀説、黒幕説については、論に無理があると殆ど否定されているようです。

本能寺後の光秀の慌てぶりをみていると、あまりにも計画性に乏しく、黒幕や連携者のいる様子は伺えません。

なにより信長が本能寺にいるところを襲撃できたタイミングが偶発的な要素だらけです。

これは千載一遇の好機を見つけた光秀が、瞬発的に起こした単独の行動と捉えるほかありません。

もちろんその背景には、日ごろからの怨恨や、将来に対する不安や、人間関係のしがらみもあったことでしょう。

大河ドラマのような義憤があったのかもしれませんし、あるいは、自分が天下人になれる機会を逃すのが惜しかっただけなのかもしれません。

が、そこは想像しても答えがでません。


ガバナンス不在だった織田政権


それよりも興味あるのは、なぜ信長政権は、部下の謀反をこれほど頻繁に招いてしまったかです。

信長が人の心が理解できない人だったらしいことは先ほど指摘しました。

それならば、それをカバーするための統治の仕組みがなければなりませんでした。

いまでいうと、ガバナンスです。

残念ながらそれがありませんでした。

常人には理解できない頭脳の持ち主である信長ひとりが突出していて、すべてを決めるオーナー采配だから、部下は不安になるのです。

これが、ある程度、ルールがあり、自分の資産が保証される術があると見通せるなら、部下も落ち着いたはずです。

少なくとも、信長がビジョンを説明し、自分の頭の中を理解させる努力をしていたならば、また違ったかもしれません。

ところが信長は、自分の考えを部下に理解してもらおうと考えるような殊勝なタイプではなかったらしい。

考えの読めない酷薄なオーナーほど恐ろしいものはありませんよ。


信長を反面教師にした豊臣秀吉


信長の後を引き継いだ秀吉は「信長公は、勇将であったが、良将ではなかった」と述懐しています。

秀吉は信長の経済政策や領国経営の方法は受け継ぎながら、ある部分は反面教師としました。

もともと人の心を読む天才だった秀吉は、味方も敵も巻き込み、大同団結する方策を得意としました。

だから敵対する者も降参すると許し、領地を安堵しました。敵とすれば、勝てないならさっさと降参した方が、幸せです。秀吉の天下統一のスピードがすこぶる速かったのはその方針を積極的にアピールしたためです。

織田信長が22年かけてできなかった天下統一を、豊臣秀吉がたった8年でできた理由

秀吉は、敵対する者をときに皆殺しにする信長のやり方は、何も生まないと批判しています。武田家を滅ぼしたことさえ、間違っていた、自分なら勝頼を生かしてうまく使っただろうと言っているぐらいです。

つまり秀吉は、利用できるものはとことん利用するというやり方です。こちらの合理性もなかなかのものですよ。

もしかすると、武士の常識など糞くらえ、世の中がうまくまわればいいんだと、農民が出自の秀吉は考えていたのかもしれません。


強固なガバナンスを作り上げた徳川政権


さらに徳川家康は、秀吉を反面教師にする政権づくりをしました。

秀吉の失敗は晩年のごたごたです。

年老いてできた我が子を溺愛するあまり、ガバナンスを無視して、後継指名した甥を自害に追い込み、その一族を抹殺してしまいました。

せっかくのガバナンスの仕組みをオーナーが無視していては、政権の正統性そのものが脆弱になってしまいます。

秀吉なきあと、あっさりと政権が瓦解したのも仕方のないことでした。


そこで家康は、早くから後継に政権を任せました。

2代目が凡庸だったことがむしろ幸いしたのかもしれません。誰でも政権が維持できるような強固なガバナンスの仕組みを作り上げています。

トップの能力に頼らない組織は、260年に渡って、機能し続けたのだから、大したものです。

麒麟が来たのかもしれませんよ。

ただ、ガバナンスが強固で保守的であるため、その分、イノベーションが起きにくい体制であったと言えるでしょう。

戦国期には先進的で、世界最強級の軍事力を誇った日本が、幕末の頃には、まるで西洋諸国に敵わない後進国になってしまったのは、それを端的に示しています。

なかなかうまくはいかないものですな。


信長の死とともに失われたビジョン


秀吉や家康にいえることは、惜しむらくも、信長ほどのビジョンを持ち得なかったことです。

信長は、新しいものが好きで、既得権益が嫌いで、大きいことが好きで、途方もなく視野が広い、イノベーションとグローバリズムの権化のような人でした。

既存秩序の破壊者で終わってしまったのは、志半ばで倒れてしまったからです。

天下布武の後、信長は、世界進出の構想を持っていたといわれています。秀吉が形だけを真似したものの、無残な結果になったたため、家康はグローバル化そのものを拒絶しました。

信長ほどの先見性を持った人が、天下人になっていたら、どのような未来を切り開いていたでしょうか。

もしかすると、日本の版図が変わっていたかもしれません。

あるいは、本当の暴君になって、日本を破壊し尽していた可能性もあります。

起きなかった未来だからこそ、興味がつきません。


「本能寺」で明智光秀の謀反を知った時、信長が語った言葉は「是非に及ばず」でした。

「良いも悪いもない」だったのか、「あれこれ言っても仕方ない」だったのか、相変わらず短かすぎて、周りには理解し難い言葉です。

しかし、志半ばで死ななければならない運命を悟った時でさえ「是非に及ばず」と言える精神性には、本当に感嘆してしまいます。

破壊者、殺戮者としての側面も規格外ですが、その潔さも、常人離れしています。

そういう意味でも、織田信長の魅力からは、抜けられそうにありませんな。