豊臣秀吉に学ぶ

(2019年4月18日メルマガより)




人を動かす。

というのは企業経営者や管理者にとって永遠の課題です。多くの方が、最も頭を悩ませているのではないでしょうか。

私だって同じです。正直にいって、戦略を立てたり、行動管理をしたり、といったことはある程度、システムが出来上がっています。たぶん、勉強した人がやれば同じような内容のものが出てくるはずです。

ところが難しいのは、立案した戦略を実行することです。正確には、その会社の皆さまに実行してもらうことです。実行してもらえなければ、戦略など画に描いた餅です。全くの無用な長物になってしまいます。

これが難しい。「戦略は作ったのだから実行はそちらの責任!」と開き直れたら楽なんでしょうが、そうもいきません。戦略は実行されて意味がある。そこに責任を持つのは、コンサルとしての良心の核心部分です。

かくして、私が最も頭を悩ませるのも、いかに人に動いてもらうか、その方法論です。

今回は、有名な戦国武将の分かりやすいエピソードを中心に、人を動かすヒントを考えていきたいと思っています。


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日本の戦国時代を代表する3人の天下人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は、性格もそれぞれ個性があって、何かと比較される存在です。

いずれも優れた人たちですが、人の扱い方にも特徴があって面白いと思います。


織田信長の「実力主義」


組織デザインやリーダーシップの研修などでよく語られるエピソードですが、豊臣秀吉が若い頃、清洲城の修復を任された話があります。


織田信長がまだ天下を窺う前、隣国美濃の攻略に手間取っている頃の話です。居城の清洲城の石垣が台風によって崩れるということがありました。

戦国時代のことですから、すぐに修復せよと信長は命じますが、いっこうにその気配がありません。訝しんだ信長が担当奉行に事情を聞いても、言い訳をするばかりで埒があきませんでした。

そこで信長は、担当奉行を更迭し、後任に木下藤吉郎をあてました。後の豊臣秀吉です。


ここに織田信長の人事の特徴があります。彼は、能力主義を貫き、身分の低い若手であっても大胆に抜擢する人事を行っていました。足軽出身の秀吉が、異例のスピードで出世することができたのは、秀吉の能力の高さがあるのはもちろんですが、それを引き上げた信長の慧眼があればこそです。

信長の人事の考え方は適材適所です。能力がある者を力が発揮できるところで働かせる。年功や家柄などは序列としない。今となっては当たり前のこの方針が、信長軍団を驚異の高生産性集団に変えていきました。

ただし信長には、合理的すぎて、人の気持ちを慮ることができない、しようとしない、という側面がありました。

功績のあった古参の家臣であろうと、働きが鈍くなってくると、降格させてしまう。極端なときは、追放してしまうこともありました。

どれだけ身を粉にして頑張っても最後には切り捨てられるのではないかという疑念を家臣に抱かせたことが、最終的には信長の命取りとなってしまうのですが。


天性の人たらし


いっぽうの秀吉は、天性の人たらしとして知られていました。上司であろうと、部下であろうと、関係先であろうと、あるいは敵であろうと、秀吉の人柄に魅了されなかった者はいないと言われています。

合戦の時でさえも、味方ではない陣営に"単身"で乗り込んで交渉を取りまとめてしまうようなウルトラCの離れ技をやってのける人です。その人たらしの能力は、大きな武器として活用されました。


信長に石垣の修復を命ぜられた藤吉郎は、石垣職人たちのもとへ酒を土産に訪れ、そのまま職人たちと酒盛りを始めてしまいました。

これが人たらしとして知られる秀吉のやり方です。仕事が進んでいないところに新しい上司がやってくるとなれば、叱られると思うのが普通でしょう。しかし秀吉は叱るそぶりもなく、明るい調子で酒盛りを始めてしまったのです。面食らった職人たちも次第に心を許し始めました。

酒が入った職人たちは猛然と前の上司への不満を言い始めました。人使いが荒い。横暴だ。叱るばかりでろくな指示がない。職人の腕を評価しないで全部自分の手柄にしようとする。

その不満をじっと聞いていた秀吉は状況を理解しました。要するに、彼らは、目標も手順も示されず、ただ働けと言われただけだった。しかも職人としての誇りも認められない。誰のために、何のために働かされているのか、わからないのに追い立てられていたのです。

情報もろくに与えられず、目の前のノルマだけ示されても、やる気にならないのは仕方ないことです。百歩譲ってそんな頼りない上司でも人柄がいいなら、この人のために頑張ろうと思えるかも知れませんが、それもない。ダメ上司の典型ですな。


ビジョンを共有する


職人の不満や愚痴を一通り聞き終えた秀吉は、雑談のような形で自分の経歴や境遇を語り始めました。

今でこそ織田家の普請奉行に抜擢された自分であるが、ほんの少し前までは貧しい足軽の身分で流浪の身であった。その先々では、サルのような容貌ゆえにひどく軽んじられ、虐められたこともあった。それなのに、織田家は実力主義で、自分のような者でも重用してくれた。誰にだってチャンスがあるのが織田家だ。それは当主である信長様の考え方なのだ。能力のある者が上に立つ織田家の権勢はこれからも揺るぎないだろう。

秀吉は、織田信長の偉大さや織田家の未来の隆盛を語りながら、誰にだって出世のチャンスがあることをそれとなく職人たちに伝えたのです。

「そこでだよ。お前たちの言い分も分かるがな…」今は戦国時代。しかも美濃と争いのさ中です。いつ攻められるかわかない状況で、石垣を崩れたままにしておくのがいかに危険なことか。

石垣修復という仕事が、信長にとって、織田家にとって、さらには織田家に属する自分たちにとっていかに重要なことであるかを語ったのです。

ここで秀吉がやったのは、働く目的を明確にする。という作業です。言い換えれば、皆で納得する目標を立てる。皆が共通のビジョンを持つ。ということです。何のための働くのか、誰のために働くのか、ということが切実であればあるほど、人はやる気になります。

まさに人間心理のツボを捉えた秀吉のやり方です。


絶妙な組織デザインとマネジメント


さらに秀吉は、職人を10個の小グループに分けることを指示しました。訝しがる職人たちに秀吉はこう言いました。

「気の合う者とグループを組め。気持ちよく仕事をすればいいぞ」

大集団で作業する場合、どうしても派閥ができやすくなります。あるいは集団にまぎれて楽をする者が現れます。そうした小さな積み重ねが全体の生産性を損ねていきます。しかし、気の合う仲間同士の小グループならば、それも起きにくい。責任の所在も明確です。今でいうアメーバ経営のようなことを提案したわけです。


秀吉は事前に石垣の状態を見て回り、作業場を修復の度合いが均等になるように10個の現場に分けていました。そのうえで、各グループにくじをひかせて、割り当てました。

「さあ、どの現場も作業量は同じだ。明日から、各グループで競争すればよい。トップのグループには、信長様から特別に褒美が出るぞ」

職人たちのプライドと功名心をくすぐるなんとも絶妙な仕掛けです。人心を知り尽くした秀吉の面目躍如といったところですか。

実をいうと、信長の褒美というのは秀吉の独断でした。しかし秀吉には勝算がありました。信長は、こういう新しい仕掛けを面白がる人なので、こころよく褒美にも応じてくれるだろう。

秀吉はその足で信長のもとを訪れました。果たして、秀吉の話を聞いた信長はその機知に大いに感心し、褒美など安いものだと了承しました。

やる気に火がついた職人たちの中には、その夜のうちから作業に入る者もいたほどです。かくして、遅々として進まなかった石垣修復は、わずかな期間に成し遂げられたということです。


叱るよりも効果的な態度


華やかで才気あふれる豊臣秀吉のエピソードに比べて、徳川家康はいくぶん地味な気がします。

三河の小大名として辛酸をなめた家康は、ことのほか家臣を大切にしました。というよりも、頼りにせざるを得なかった。一癖も二癖もある家臣たちを粘り強く味方にしていく様は涙ぐましいと思えるほどです。

当時の武士といえば、まだ農家の一形態です。自分の土地を守るために武装している人たちですから、何よりも我が土地が第一です。だから主人筋が頼りないなら、敵方に寝返ることも辞さずというものでした。

そんな我の強い家臣たちの信頼を勝ち得るためには、地道に粘り強くかかわっていかなければなりません。


家康がまだ若い頃、夜、ねぎらってやろうと酒と肴をもって宿直室を訪れました。ところが、本来3人いるはずの宿直がひとりしかいません。

ちなみに徳川家では、秀吉の小集団活動を参考にしたのか、すべての役職を複数人が務めるんが通例でした。だから宿直も3人です。3人いればとっさの時にも対応がしやすいでしょう。

そんな家康の考えを知らずか、宿直など1人いれば充分だと示し合わせて、あとの2人は遊びに行ってしまったのです。

さぞかし呆れたことでしょうが、頭ごなしに叱ることはしないのが家康です。それどころか、残った1人に対して「おまえも遊びに行け」とけしかけたのです。

「武士は戦場でも仲間同士助け合わねばならない。仲間割れがいちばんダメだ。だからサボって遊びに行くなら皆で行け」言っていることはむちゃくちゃですが、殿様が行けというのだから、行かなくてはなりません。

1人残った宿直は大慌てで遊郭に行って、残りの2人に事情を説明しました。みな、泡を食って戻ってきたのは言うまでもありません。

3人が帰ってくると、家康は宿直室でひとり酒を飲んでいました。平服する3人を見て家康はニヤリと笑い「では後は頼むぞ」と言って出ていきました。

厳罰を覚悟していた3人には何の咎めもありませんでした。彼らは、家康の懐の深さに大いに感じ入り、忠誠心を強くしたということです。


さすが「鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥」とうたわれた徳川家康です。一時の感情で短気を起こしたりしないものです。

もっとも家康は晩年、豊臣家の殲滅を急いでなりふり構わぬ理不尽な所業に出て、後世の評判を致命的に落としてしまいました。

おかげで徳川幕府は300年も続いたのですが、やはりこれは焦った家康のミスだったと思います。

1人宿直室で飲んでいた頃の家康の我慢は、人生の最後には発揮されなかったようです。全く残念なことですな。



※上記2つのエピソードは、童門冬二の「『人望力』の条件」を参考にしました。少し脚色していますが、よしなにお願いいたします。